今朝の放送内容 11月22日(火)
2022年11月22日(火)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●豊平区と北広島市で火事
●石狩市で自転車と車の事故 91歳男性が死亡
●旧統一教会へ質問権行使を了承
●救済新法「役に立たない」 全国弁連
●道内感染者3812人 全国4万1千人
●苫小牧住宅火災 ストーブが火元か
●新卒採用ウェブテスト”替え玉”受験 会社員の男逮捕
●インドネシアでM5.6の地震 少なくとも62人が死亡
●「さっぽろホワイトイルミネーション」きょう開幕
●「デマンド交通」実証実験 手稲区
●月探査船「オモテナシ」着陸を断念 JAXA発表
●サッカーW杯
イングランドが6-2でイランに圧勝
オランダが2-0でセネガルに快勝
アメリカとウェールズは1-1の引き分け
●きのうの大相撲九州場所結果 一山本・北青鵬ともに6勝
●NBAネッツ渡辺雄太選手 4試合連続二桁得点
●全国高校サッカー組み合わせ決定 北海は国見と初戦
●ファイターズ 来年3/30新球場開幕戦は楽天
●楽天ドラフト4位 東農大オホーツク・伊藤茉央投手が契約合意
●IHアジアリーグ クレインズが勝率5割で折り返し
●スキージャンプW杯 二階堂蓮選手が初表彰台へ意気込み
●石狩市で自転車と車の事故 91歳男性が死亡
●旧統一教会へ質問権行使を了承
●救済新法「役に立たない」 全国弁連
●道内感染者3812人 全国4万1千人
●苫小牧住宅火災 ストーブが火元か
●新卒採用ウェブテスト”替え玉”受験 会社員の男逮捕
●インドネシアでM5.6の地震 少なくとも62人が死亡
●「さっぽろホワイトイルミネーション」きょう開幕
●「デマンド交通」実証実験 手稲区
●月探査船「オモテナシ」着陸を断念 JAXA発表
●サッカーW杯
イングランドが6-2でイランに圧勝
オランダが2-0でセネガルに快勝
アメリカとウェールズは1-1の引き分け
●きのうの大相撲九州場所結果 一山本・北青鵬ともに6勝
●NBAネッツ渡辺雄太選手 4試合連続二桁得点
●全国高校サッカー組み合わせ決定 北海は国見と初戦
●ファイターズ 来年3/30新球場開幕戦は楽天
●楽天ドラフト4位 東農大オホーツク・伊藤茉央投手が契約合意
●IHアジアリーグ クレインズが勝率5割で折り返し
●スキージャンプW杯 二階堂蓮選手が初表彰台へ意気込み
今朝の選曲
【5時台】
M「もう一度/竹内まりや」
【6時台】
M「虹/菅田将暉」
【7時台】
M「アンチェインド・メロディー/ライチャス・ブラザース」
M「もう一度/竹内まりや」
【6時台】
M「虹/菅田将暉」
【7時台】
M「アンチェインド・メロディー/ライチャス・ブラザース」
あさミミ!アラカルト~八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 魔術師 三原脩 」
今シーズンのプロ野球、日本一はオリックスバファローズでした。
その中で新聞の見出しに踊った文字が「ナカジマジック」。
これはオリックス中嶋監督が成し遂げた史上まれにみる逆転劇での日本一、
その選手の掌握術をたたえた言葉でしたが、その元祖ともいえる方が
生きていれば21日で111歳となる誕生日を迎えた三原脩さんです。
三原脩さんは1911年11月21日香川県出身のプロ野球選手。
現役時代は内野手として活躍されました。
中学校入学後から野球にのめり込み、
高松中学校ではショートとして第14回全国中等学校優勝野球大会へ出場。
卒業後は早稲田大学から勧誘され入学。
野球部では1年生から活躍し、特に1931年春季「早慶戦」2回戦で後にプロでチームメイトとなり、
終生のライバルとなる水原茂さんを相手に敢行した、当時の不文律を破ったホームスチールは
長い早慶戦史に名を残すほどの大きなプレーとなります。
しかし、三原さんは1933年に結婚を機に野球部を退部し、帰郷。
野球から離れた生活を送っていましたが、大学時代の仲間に勧誘されて全大阪でプレー、
リーグ戦では通算67試合、231打数68安打、打率.294という記録を残します。
1934年に来日を果たす全米軍の為に結成された全日本軍である大日本東京野球倶楽部に
6月三原さんは契約選手第1号として入団。
所説ありますが、日本のプロ野球選手第一号といってもいい方です。
チームは半年後の1934年12月26日に発足し、直後の1935年1月に入営のために一度退団。
その後、日本初のプロ野球である日本職業野球連盟が発足した1936年9月に、
後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰。
1938年に三たび復帰した際、秋季リーグ中に塁審が下した判定を巡る抗議で
出場停止処分と罰金が課されることになり、それを不服として現役を引退、
東京巨人軍を退団します。
現役引退後は、新聞社で記者活動やビルマ戦線に従軍、無事に帰還などを経て終戦を迎え、
1947年のシーズン途中の6月3日に、成績不振に悩まされていた巨人から三原さんは監督就任要請を受諾、
助監督兼技術顧問として復帰。
1948年からは監督となり、1949年にチームは優勝。巨人にとって戦後初優勝の立役者となります。
ただ、この年、学生時代からのライバルで巨人入団後に三塁手を務めていた水原茂さんがシベリア抑留から帰国。
かつての水原さんの活躍を知るファンや選手からは
待ち望んでいた「巨人の功労者」水原さんのプレーを期待する声が高まりますが、
三原さんは水原さんを起用せず、チーム内からは三原さんに対する批判が起きます。
シーズン後もその批判は収まらず、選手らを中心に三原さんを排斥して
水原さんを擁立させようとする「三原監督排斥運動」が起きます。
球団はこの事態を重く見て「総監督に三原、監督に水原」の人事を発表し、
セントラル・リーグに加盟した1950年から現場の指揮権は水原さんが握ることになります。
名ばかりの監督だった三原さんは1950年のシーズン終了後、
西日本パイレーツを吸収合併した「西鉄クリッパース(後の西鉄ライオンズ)」監督に就任。
巨人時代の悶々とした気持ちを晴らすために西鉄ライオンズを強大なチームに育て上げて、
日本シリーズでの「打倒巨人」を誓います。
1952年に球界屈指のスター選手大下弘さんの獲得に成功すると、
中西太さん、豊田泰光さん、稲尾和久さんら若手有望株の選手を相次いで獲得、
1954年に初優勝を遂げます。
そしてついに、因縁の巨人との日本シリーズが1956年実現。
「巌流島の決闘」と評されるほどの注目の中、4勝2敗で三原さんにとって念願の「巨人を破っての日本一」を達成。
ここから西鉄黄金時代の始まりとなり、1957年には4勝1分で巨人を無敗で一蹴するなど、
選手の間からは「パ・リーグで勝ち抜く方が難しい」といった声も聞かれるほどの強さを誇ったそうです。
そんな三原西鉄最大のトピックは何と言っても1958年巨人との日本シリーズ。
この年セ・リーグ二冠王の新人長嶋茂雄さんが加入した巨人が西鉄を圧倒し、3連勝でいきなり王手。
しかしその翌未明に三原さんは雨が降っていることに気付き、球団社長へ電話を掛けて第4戦の中止を要請。
「フル回転だった稲尾を休ませたい」「ツキを変えたい」との思惑からでした。
その結果、西鉄は雨天中止による中1日登板の稲尾さんが完投して第4戦に勝利すると、
舞台を後楽園球場に移した第5戦では3点ビハインドから逆転に成功し、
エース稲尾さんが第6戦、第7戦でも完投し4連勝。
この瞬間アメリカのワールドシリーズでも前例が無かった「3連敗からの4連勝」で頂点に立ちました。
この時三原さんが口にしたのがかの有名な言葉、「神様、仏様、稲尾様」でした。
その手腕を買われ、1960年からはセ・リーグで6年連続最下位に低迷していた
大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)の監督に就任。
下馬評最悪の状況で始まったこのシーズン、開幕から6連敗を喫し、
エースの秋山登さんも離脱する苦しい幕開けとなりましたが、
ここで三原さんの選手起用がすぐに冴えます。
スタミナ不足で前年を未勝利で終えた権藤正利さんを中継ぎ専門で復活させ、
エース秋山さん復帰後には先発、中継ぎ、抑えの三役を担わせることで接戦での勝利が増えます。
空いた先発枠に若手の島田源太郎さんを抜擢し投手力の若返りと底上げに成功。
また、リーグ最低の打率の打線は、二塁手に新人の近藤昭仁さんを起用するなど、野手陣を再編。
そして、近鉄から当時監督と揉めて出場機会に恵まれていなかった鈴木武さんを獲得して
遊撃手として起用するとすぐに優れた適応力を見せ、打者によって守備位置を変え、
牽制時に巧みなタッチで走者を度々アウトにするなど、チームの守備力向上に貢献。
それまで正遊撃手だった守備力で劣る麻生実男さんを代打専門、
走力が特徴の浜中祥和さんを代走で重点的に起用するなど、能力を生かす起用をします。
さらに三原さんは投手、野手問わず選手が最も得意とする技術を徹底的に磨くよう指示。
「タイプの違った2人の選手の長所を上手く組み合わせて起用すれば、
1人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる…」を持論とし、
これら選手を「超二流」と呼んで上手く組み合わせる采配を見せ、僅差に強いチーム作りを進めます。
結果、粘る巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げました。
その後の日本シリーズでも勝利し、前年度が最下位だった球団による
リーグ優勝・日本一という日本プロ野球史上初の快挙を達成。
監督として3球団での優勝という史上初の快挙も同時に達成しました。
その後1968年就任した近鉄バファローズでも就任2年目には
阪急ブレーブスとの優勝争いを繰り広げるまで成長させ、
1971年から監督に就任したヤクルトアトムズではAクラス入りは果たせなかったものの、
期間中徐々に勝率を上げることに成功。
電電北海道から入団した、若松勉さんの打撃センスを見抜いてレギュラーに抜擢、
中西太打撃コーチとのマンツーマン指導で2年目に首位打者を獲得させるなど、
大打者として飛躍するきっかけを作ります。
そして、三原さんはヤクルトアトムズの監督勇退後1973年とある球団の買収へ関与し、
後に買収後の球団の初代代表取締役社長兼球団代表に就任します。
その球団こそ、日本ハムファイターズ。
チームは誕生後2年連続の最下位に終わりますが、その後大沢啓二さんを招聘。
三原さんが相談役へ退いた1981年には前身の東映フライヤーズ時代以来19年ぶりとなるリーグ優勝を果たしました。
こうした功績が認められ1983年に野球殿堂入りを果たしましたが、1984年2月72歳でその生涯を閉じます。
独自の発想で弱いチームを強くしたり、
有望な若手を一流選手に育てることに長けた三原脩さんの手腕はまさに魔術・・
マジックのようだったと後世にまで伝えられ、
その後、素晴らしい監督の手腕は「マジック」と呼ばれるようになったのです。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 魔術師 三原脩 」
今シーズンのプロ野球、日本一はオリックスバファローズでした。
その中で新聞の見出しに踊った文字が「ナカジマジック」。
これはオリックス中嶋監督が成し遂げた史上まれにみる逆転劇での日本一、
その選手の掌握術をたたえた言葉でしたが、その元祖ともいえる方が
生きていれば21日で111歳となる誕生日を迎えた三原脩さんです。
三原脩さんは1911年11月21日香川県出身のプロ野球選手。
現役時代は内野手として活躍されました。
中学校入学後から野球にのめり込み、
高松中学校ではショートとして第14回全国中等学校優勝野球大会へ出場。
卒業後は早稲田大学から勧誘され入学。
野球部では1年生から活躍し、特に1931年春季「早慶戦」2回戦で後にプロでチームメイトとなり、
終生のライバルとなる水原茂さんを相手に敢行した、当時の不文律を破ったホームスチールは
長い早慶戦史に名を残すほどの大きなプレーとなります。
しかし、三原さんは1933年に結婚を機に野球部を退部し、帰郷。
野球から離れた生活を送っていましたが、大学時代の仲間に勧誘されて全大阪でプレー、
リーグ戦では通算67試合、231打数68安打、打率.294という記録を残します。
1934年に来日を果たす全米軍の為に結成された全日本軍である大日本東京野球倶楽部に
6月三原さんは契約選手第1号として入団。
所説ありますが、日本のプロ野球選手第一号といってもいい方です。
チームは半年後の1934年12月26日に発足し、直後の1935年1月に入営のために一度退団。
その後、日本初のプロ野球である日本職業野球連盟が発足した1936年9月に、
後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰。
1938年に三たび復帰した際、秋季リーグ中に塁審が下した判定を巡る抗議で
出場停止処分と罰金が課されることになり、それを不服として現役を引退、
東京巨人軍を退団します。
現役引退後は、新聞社で記者活動やビルマ戦線に従軍、無事に帰還などを経て終戦を迎え、
1947年のシーズン途中の6月3日に、成績不振に悩まされていた巨人から三原さんは監督就任要請を受諾、
助監督兼技術顧問として復帰。
1948年からは監督となり、1949年にチームは優勝。巨人にとって戦後初優勝の立役者となります。
ただ、この年、学生時代からのライバルで巨人入団後に三塁手を務めていた水原茂さんがシベリア抑留から帰国。
かつての水原さんの活躍を知るファンや選手からは
待ち望んでいた「巨人の功労者」水原さんのプレーを期待する声が高まりますが、
三原さんは水原さんを起用せず、チーム内からは三原さんに対する批判が起きます。
シーズン後もその批判は収まらず、選手らを中心に三原さんを排斥して
水原さんを擁立させようとする「三原監督排斥運動」が起きます。
球団はこの事態を重く見て「総監督に三原、監督に水原」の人事を発表し、
セントラル・リーグに加盟した1950年から現場の指揮権は水原さんが握ることになります。
名ばかりの監督だった三原さんは1950年のシーズン終了後、
西日本パイレーツを吸収合併した「西鉄クリッパース(後の西鉄ライオンズ)」監督に就任。
巨人時代の悶々とした気持ちを晴らすために西鉄ライオンズを強大なチームに育て上げて、
日本シリーズでの「打倒巨人」を誓います。
1952年に球界屈指のスター選手大下弘さんの獲得に成功すると、
中西太さん、豊田泰光さん、稲尾和久さんら若手有望株の選手を相次いで獲得、
1954年に初優勝を遂げます。
そしてついに、因縁の巨人との日本シリーズが1956年実現。
「巌流島の決闘」と評されるほどの注目の中、4勝2敗で三原さんにとって念願の「巨人を破っての日本一」を達成。
ここから西鉄黄金時代の始まりとなり、1957年には4勝1分で巨人を無敗で一蹴するなど、
選手の間からは「パ・リーグで勝ち抜く方が難しい」といった声も聞かれるほどの強さを誇ったそうです。
そんな三原西鉄最大のトピックは何と言っても1958年巨人との日本シリーズ。
この年セ・リーグ二冠王の新人長嶋茂雄さんが加入した巨人が西鉄を圧倒し、3連勝でいきなり王手。
しかしその翌未明に三原さんは雨が降っていることに気付き、球団社長へ電話を掛けて第4戦の中止を要請。
「フル回転だった稲尾を休ませたい」「ツキを変えたい」との思惑からでした。
その結果、西鉄は雨天中止による中1日登板の稲尾さんが完投して第4戦に勝利すると、
舞台を後楽園球場に移した第5戦では3点ビハインドから逆転に成功し、
エース稲尾さんが第6戦、第7戦でも完投し4連勝。
この瞬間アメリカのワールドシリーズでも前例が無かった「3連敗からの4連勝」で頂点に立ちました。
この時三原さんが口にしたのがかの有名な言葉、「神様、仏様、稲尾様」でした。
その手腕を買われ、1960年からはセ・リーグで6年連続最下位に低迷していた
大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)の監督に就任。
下馬評最悪の状況で始まったこのシーズン、開幕から6連敗を喫し、
エースの秋山登さんも離脱する苦しい幕開けとなりましたが、
ここで三原さんの選手起用がすぐに冴えます。
スタミナ不足で前年を未勝利で終えた権藤正利さんを中継ぎ専門で復活させ、
エース秋山さん復帰後には先発、中継ぎ、抑えの三役を担わせることで接戦での勝利が増えます。
空いた先発枠に若手の島田源太郎さんを抜擢し投手力の若返りと底上げに成功。
また、リーグ最低の打率の打線は、二塁手に新人の近藤昭仁さんを起用するなど、野手陣を再編。
そして、近鉄から当時監督と揉めて出場機会に恵まれていなかった鈴木武さんを獲得して
遊撃手として起用するとすぐに優れた適応力を見せ、打者によって守備位置を変え、
牽制時に巧みなタッチで走者を度々アウトにするなど、チームの守備力向上に貢献。
それまで正遊撃手だった守備力で劣る麻生実男さんを代打専門、
走力が特徴の浜中祥和さんを代走で重点的に起用するなど、能力を生かす起用をします。
さらに三原さんは投手、野手問わず選手が最も得意とする技術を徹底的に磨くよう指示。
「タイプの違った2人の選手の長所を上手く組み合わせて起用すれば、
1人のスタープレーヤーに匹敵する戦力が生まれる…」を持論とし、
これら選手を「超二流」と呼んで上手く組み合わせる采配を見せ、僅差に強いチーム作りを進めます。
結果、粘る巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げました。
その後の日本シリーズでも勝利し、前年度が最下位だった球団による
リーグ優勝・日本一という日本プロ野球史上初の快挙を達成。
監督として3球団での優勝という史上初の快挙も同時に達成しました。
その後1968年就任した近鉄バファローズでも就任2年目には
阪急ブレーブスとの優勝争いを繰り広げるまで成長させ、
1971年から監督に就任したヤクルトアトムズではAクラス入りは果たせなかったものの、
期間中徐々に勝率を上げることに成功。
電電北海道から入団した、若松勉さんの打撃センスを見抜いてレギュラーに抜擢、
中西太打撃コーチとのマンツーマン指導で2年目に首位打者を獲得させるなど、
大打者として飛躍するきっかけを作ります。
そして、三原さんはヤクルトアトムズの監督勇退後1973年とある球団の買収へ関与し、
後に買収後の球団の初代代表取締役社長兼球団代表に就任します。
その球団こそ、日本ハムファイターズ。
チームは誕生後2年連続の最下位に終わりますが、その後大沢啓二さんを招聘。
三原さんが相談役へ退いた1981年には前身の東映フライヤーズ時代以来19年ぶりとなるリーグ優勝を果たしました。
こうした功績が認められ1983年に野球殿堂入りを果たしましたが、1984年2月72歳でその生涯を閉じます。
独自の発想で弱いチームを強くしたり、
有望な若手を一流選手に育てることに長けた三原脩さんの手腕はまさに魔術・・
マジックのようだったと後世にまで伝えられ、
その後、素晴らしい監督の手腕は「マジック」と呼ばれるようになったのです。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」!ですが、少しマイナーチェンジします。
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!
あさミミでは「もったいない」への取り組みを全力応援します!
北海道ライブあさミミでは、この秋からスペシャル企画始動します。
例えば、
題して「 もったいない!プラスワン! 」
去年はリスナーの皆様の「節約」を全力応援してきましたが、
今年のキーワードは「もったいない」です。
普段の生活には「もったいない」と感じる場面が数多く潜んでいます。
みんなでその「もったいない」をひとつでも多く防いで行こうではないか!
という企画です。
例えば、
・旦那が捨てようとしていた歯磨き粉、開いたらあと2回分残っていた!
・息子が使わなくなったカバン、夫がその後10年使用。まだまだ現役です!
・今まで捨てていた大根の葉っぱ。レシピを調べたらものすごい数でびっくり!
など、日常生活で感じた・共有したい「もったいない」エピソードを
あさミミまでお寄せください。
この企画をきっかけに、生活に「もったいない」をプラスしていきましょう!
メール・FAX・おハガキでお待ちしています!
メール asamimi@stv.jp FAX 011-202-7290
おハガキ 〒060-8705 STVラジオあさミミ もったいない係
※こちらも毎週の「あさミミ粗品歯ブラシ」プレゼントの抽選対象です
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あさミミでは今後も「もったいない」に関する様々な取り組み
ご紹介していきます!お楽しみに!