今朝の放送内容 7月12日(火)
2022年7月12日(火)
7月12日(火)
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●安倍元総理の通夜執り行われる
●安倍元総理の殺害 去年秋に決意
●旧統一教会 会長が記者会見
●道内感染者602人 全国3万7千人
●尾身会長「第7波に入っている」
●建設中の倉庫で作業員が転落
●旭川いじめ問題 2回目の懇話会開催
●「安全・安心アンバサダー」本橋麻里さん任命
●イギリス次期首相 9/5に選出へ
●きのうの大リーグ
レッドソックス・澤村拓一投手が今季初勝利
●プロ野球球宴 選手間投票で巨人・丸選手ら5人が新たに選出
ファイターズからは松本剛選手が選出
●きのうの大相撲名古屋場所結果 一山本2連勝 北青鵬が関取初白星
●ファイターズ 球宴明け後半からメンバー固定へ
●コンサドーレ・中島大嘉選手 点取り屋へ殻破る
●安倍元総理の殺害 去年秋に決意
●旧統一教会 会長が記者会見
●道内感染者602人 全国3万7千人
●尾身会長「第7波に入っている」
●建設中の倉庫で作業員が転落
●旭川いじめ問題 2回目の懇話会開催
●「安全・安心アンバサダー」本橋麻里さん任命
●イギリス次期首相 9/5に選出へ
●きのうの大リーグ
レッドソックス・澤村拓一投手が今季初勝利
●プロ野球球宴 選手間投票で巨人・丸選手ら5人が新たに選出
ファイターズからは松本剛選手が選出
●きのうの大相撲名古屋場所結果 一山本2連勝 北青鵬が関取初白星
●ファイターズ 球宴明け後半からメンバー固定へ
●コンサドーレ・中島大嘉選手 点取り屋へ殻破る
今朝の選曲
【6時台】
M「サマータイムブルース/渡辺美里」
【7時台】
M「恋はメキ・メキ/トム・ジョーンズ」
M「サマータイムブルース/渡辺美里」
【7時台】
M「恋はメキ・メキ/トム・ジョーンズ」
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グリーン麺コーデの油野AN
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七味グリーン麺
-
グリーングリーン麺
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 戦禍に散った男爵 バロン西 」
つい先日、近代5種というオリンピック種目
(フェンシング、水泳、馬術、それにランニングと射撃を組み合わせたレーザーランの5つ)の中から、
2028年のロサンゼルスオリンピックからは馬術の代わりに、
人気番組SASUKEを取り入れるかも・・というニュースがありました。
馬術競技は、日本ではあまりなじみのない競技の一つと言えるかもしれません。
しかし、そんな馬術競技で唯一金メダルを獲得したことがある方をご存知でしょうか?
それが、1902年の今日7月12日に生まれた「バロン西」こと西竹一さんです。
西竹一さんは1902年7月12日生まれ、陸軍軍人でした。
お父様である西徳二郎さんは薩摩藩出身。
後に外務大臣や当時の天皇の諮問機関である枢密院で枢密顧問官などを歴任。
現在の中国、当時の「清」で駐清公使時代には、清朝末期の動乱である「義和団の乱」の
処理に当たった人物であり、この義和団の乱の処理の際に、
あの西太后から信頼を厚くされ中国茶の専売権を与えられて、
巨万の富を手にした人物で、1895年には「男爵」の称号を送られました。
ただ、1912年父、徳二郎が死去したことにより、僅か9歳でその跡を継ぎ当主として
竹一さんは男爵となります。
彼の愛称「バロン」とは男爵の意味です。
そんな西さんは華族の嗜みとして幼少時から馬術を身につけ、
やがて1921年陸軍士官学校予科へ入校し、陸士予科では、帝国陸軍の花形である騎兵を選択、
ここで本格的に馬を操る技術を身につけていきます。
卒業後は見習士官として騎兵第1連隊附となり、1927年に陸軍騎兵学校を卒業、
10月には陸軍騎兵中尉に進級しています。
そんな西さんの運命を変えたのが1932年のロサンゼルスオリンピック出場決定です。
1930年、出場が決まったロサンゼルスオリンピックのために半年間の休養を取り、
パートナーである馬を探すためアメリカやヨーロッパへ向います。
このとき、ヨーロッパへ向かう船内で当時の世界的スターだった「ダグラス・フェアバンクス」と
「メアリー・ピックフォード」夫妻と親交を持ちます。
西さんは非常に明るく天真爛漫でサッパリした性格で、英語も堪能だったようで、
当時の大スターとも物おじすることなくの交流を深めたと言われています。
後には当時の映画スター、あの「チャーリー・チャップリン」とも親交があったともいわれています。
そして、3月。西さんはイタリアで、後に終生の友とも言うべき存在となる
愛馬ウラヌス号との運命的な出会いを果たします。
高さ191cm、堂々たる体躯のウラヌスを一目見た途端に惚れ込み、
即座に6,500伊リラ(当時の換算レートで、1,000円)で自費購入。
自身も当時としては長身の175cmだった西さんは、
後にウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残していきます。
そして1932年、帝国陸軍の出場選手一同とロサンゼルスオリンピックに参加。
出場した馬術大障害飛越競技、
本番ではライバルのアメリカ代表チェンバレン、スウェーデン代表ローゼンを抑え、
見事な手綱さばきで最小減点8で優勝、金メダリストとなりました。
ちなみに、この快挙はアジア諸国として初、更に去年の東京オリンピックを含めて、
日本勢がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録となります。
そして、優勝後のインタビューでは得意の英語で「We won(我々は勝った)」と答えます。
華麗な競技で魅了しただけでなく、愛馬との共同作業によるものだという言葉に全米の人々が感動、
熱狂したそうです。
そしてこの瞬間、「バロン西」の名声は揺るぎないものとなりました。
西さんは4年後の1936年ベルリンオリンピックにも参加していますが、
ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し棄権しています。
そして、このベルリンオリンピックの後、本業の軍務に戻ると、
日中戦争開戦後の1939年3月には陸軍騎兵少佐に昇進し、
軍馬の育成などを担当する陸軍省軍馬補充部の十勝支部員として、
北海道にも来られたことがあるそうです。
ただ、時代は第二次世界大戦に向けた軍拡時代となり、騎兵部隊の削減、
代わって近代的な戦車兵・戦車部隊の新設に伴い、
やがて西さんも1944年には戦車第26連隊連隊長を拝命、
そして6月20日にはあの硫黄島への動員が下されます。
実はその後8月に、戦車補充のため一旦東京に戻ります。
そのとき、東京都世田谷にある、現在は日本中央競馬会(JRA)が運営する馬事普及の拠点である
馬事公苑で余生を過していたウラヌス号に会いに行ったそうです。
ウラヌスは西さんの足音を聞いてとても喜んだようで、
馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、相手の肌に歯のあとを残すという
愛咬という行動をしてきたそうです。
ただ、日に日に戦火が厳しくなる中、命じられた硫黄島に再び赴くことになります。
この時、西さんはあのロサンゼルスオリンピックで手にしていた愛用の鞭と、
いつも履いていたエルメス製のオーダーメイドの乗馬長靴を肌身離さず持っていたようです。
「硫黄島」という赴任地でもわかる通り、硫黄島で日米両軍の戦いは熾烈を極めていきます。
しかし、アメリカで西さんは全米を熱狂、感動させた人物として有名でした。
ですからこの硫黄島では日本軍が劣勢の状況でもアメリカ軍は西さんの命を惜しんで
「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と
わざわざ日本語で何度となく西さんに投降を呼びかけましたが、西さんはこれらを全て無視。
3月17日に音信を絶ち、後に戦死したと伝えられています。
この西さんの硫黄島での姿は、2006年公開されたクリントイーストウッド監督の
映画「硫黄島」からの手紙(西さん役は伊原剛志」」でも描かれています。
実は西さんが戦死したとされる約1週間後の3月末、
本土の陸軍獣医学校に居た愛馬ウラヌスもまた、西さんの後を追うようになくなったそうです。
最後の地となった激戦の地、硫黄島。実は西さん、もう一つ肌身離さず持っていたものがあったそうです。
それが愛馬ウラヌスのたてがみでした。ともに金メダルを獲得した相棒のことをずっと思っていたんでしょう。
このたてがみ、西さんの没後46年たった、1990年アメリカで偶然発見されます。
恐らく、アメリカでも有名だった西さんの生きた証を残そうと、誰かが持ち帰ったのでしょう。
そのたてがみ、後に日本に帰され展示されることになります。
現在は軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められています。
戦火に散った金メダリスト、バロン西。
もしこのたてがみを見る機会があったら
彼の偉業と紳士的な振る舞いも思いだしていただければと思います。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 戦禍に散った男爵 バロン西 」
つい先日、近代5種というオリンピック種目
(フェンシング、水泳、馬術、それにランニングと射撃を組み合わせたレーザーランの5つ)の中から、
2028年のロサンゼルスオリンピックからは馬術の代わりに、
人気番組SASUKEを取り入れるかも・・というニュースがありました。
馬術競技は、日本ではあまりなじみのない競技の一つと言えるかもしれません。
しかし、そんな馬術競技で唯一金メダルを獲得したことがある方をご存知でしょうか?
それが、1902年の今日7月12日に生まれた「バロン西」こと西竹一さんです。
西竹一さんは1902年7月12日生まれ、陸軍軍人でした。
お父様である西徳二郎さんは薩摩藩出身。
後に外務大臣や当時の天皇の諮問機関である枢密院で枢密顧問官などを歴任。
現在の中国、当時の「清」で駐清公使時代には、清朝末期の動乱である「義和団の乱」の
処理に当たった人物であり、この義和団の乱の処理の際に、
あの西太后から信頼を厚くされ中国茶の専売権を与えられて、
巨万の富を手にした人物で、1895年には「男爵」の称号を送られました。
ただ、1912年父、徳二郎が死去したことにより、僅か9歳でその跡を継ぎ当主として
竹一さんは男爵となります。
彼の愛称「バロン」とは男爵の意味です。
そんな西さんは華族の嗜みとして幼少時から馬術を身につけ、
やがて1921年陸軍士官学校予科へ入校し、陸士予科では、帝国陸軍の花形である騎兵を選択、
ここで本格的に馬を操る技術を身につけていきます。
卒業後は見習士官として騎兵第1連隊附となり、1927年に陸軍騎兵学校を卒業、
10月には陸軍騎兵中尉に進級しています。
そんな西さんの運命を変えたのが1932年のロサンゼルスオリンピック出場決定です。
1930年、出場が決まったロサンゼルスオリンピックのために半年間の休養を取り、
パートナーである馬を探すためアメリカやヨーロッパへ向います。
このとき、ヨーロッパへ向かう船内で当時の世界的スターだった「ダグラス・フェアバンクス」と
「メアリー・ピックフォード」夫妻と親交を持ちます。
西さんは非常に明るく天真爛漫でサッパリした性格で、英語も堪能だったようで、
当時の大スターとも物おじすることなくの交流を深めたと言われています。
後には当時の映画スター、あの「チャーリー・チャップリン」とも親交があったともいわれています。
そして、3月。西さんはイタリアで、後に終生の友とも言うべき存在となる
愛馬ウラヌス号との運命的な出会いを果たします。
高さ191cm、堂々たる体躯のウラヌスを一目見た途端に惚れ込み、
即座に6,500伊リラ(当時の換算レートで、1,000円)で自費購入。
自身も当時としては長身の175cmだった西さんは、
後にウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残していきます。
そして1932年、帝国陸軍の出場選手一同とロサンゼルスオリンピックに参加。
出場した馬術大障害飛越競技、
本番ではライバルのアメリカ代表チェンバレン、スウェーデン代表ローゼンを抑え、
見事な手綱さばきで最小減点8で優勝、金メダリストとなりました。
ちなみに、この快挙はアジア諸国として初、更に去年の東京オリンピックを含めて、
日本勢がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録となります。
そして、優勝後のインタビューでは得意の英語で「We won(我々は勝った)」と答えます。
華麗な競技で魅了しただけでなく、愛馬との共同作業によるものだという言葉に全米の人々が感動、
熱狂したそうです。
そしてこの瞬間、「バロン西」の名声は揺るぎないものとなりました。
西さんは4年後の1936年ベルリンオリンピックにも参加していますが、
ウラヌスと臨んだ障害飛越競技では競技中落馬し棄権しています。
そして、このベルリンオリンピックの後、本業の軍務に戻ると、
日中戦争開戦後の1939年3月には陸軍騎兵少佐に昇進し、
軍馬の育成などを担当する陸軍省軍馬補充部の十勝支部員として、
北海道にも来られたことがあるそうです。
ただ、時代は第二次世界大戦に向けた軍拡時代となり、騎兵部隊の削減、
代わって近代的な戦車兵・戦車部隊の新設に伴い、
やがて西さんも1944年には戦車第26連隊連隊長を拝命、
そして6月20日にはあの硫黄島への動員が下されます。
実はその後8月に、戦車補充のため一旦東京に戻ります。
そのとき、東京都世田谷にある、現在は日本中央競馬会(JRA)が運営する馬事普及の拠点である
馬事公苑で余生を過していたウラヌス号に会いに行ったそうです。
ウラヌスは西さんの足音を聞いてとても喜んだようで、
馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、相手の肌に歯のあとを残すという
愛咬という行動をしてきたそうです。
ただ、日に日に戦火が厳しくなる中、命じられた硫黄島に再び赴くことになります。
この時、西さんはあのロサンゼルスオリンピックで手にしていた愛用の鞭と、
いつも履いていたエルメス製のオーダーメイドの乗馬長靴を肌身離さず持っていたようです。
「硫黄島」という赴任地でもわかる通り、硫黄島で日米両軍の戦いは熾烈を極めていきます。
しかし、アメリカで西さんは全米を熱狂、感動させた人物として有名でした。
ですからこの硫黄島では日本軍が劣勢の状況でもアメリカ軍は西さんの命を惜しんで
「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と
わざわざ日本語で何度となく西さんに投降を呼びかけましたが、西さんはこれらを全て無視。
3月17日に音信を絶ち、後に戦死したと伝えられています。
この西さんの硫黄島での姿は、2006年公開されたクリントイーストウッド監督の
映画「硫黄島」からの手紙(西さん役は伊原剛志」」でも描かれています。
実は西さんが戦死したとされる約1週間後の3月末、
本土の陸軍獣医学校に居た愛馬ウラヌスもまた、西さんの後を追うようになくなったそうです。
最後の地となった激戦の地、硫黄島。実は西さん、もう一つ肌身離さず持っていたものがあったそうです。
それが愛馬ウラヌスのたてがみでした。ともに金メダルを獲得した相棒のことをずっと思っていたんでしょう。
このたてがみ、西さんの没後46年たった、1990年アメリカで偶然発見されます。
恐らく、アメリカでも有名だった西さんの生きた証を残そうと、誰かが持ち帰ったのでしょう。
そのたてがみ、後に日本に帰され展示されることになります。
現在は軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められています。
戦火に散った金メダリスト、バロン西。
もしこのたてがみを見る機会があったら
彼の偉業と紳士的な振る舞いも思いだしていただければと思います。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」!ですが、少しマイナーチェンジします。
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!
帰ってきた!《ツルハ ハッピーライフ 毎日笑顔》
今回のテーマ「 ちょっと遠出の旅グルメ! 」
帰ってきました!「ツルハ ハッピーライフ 毎日笑顔!」
7月と8月毎週月曜日の期間限定でお送りします!(全9回です)
今回のメッセージテーマは
「 ツルハハッピーライフ毎日笑顔~ちょっと遠出の旅グルメ! 」
食は人を笑顔にさせますね。
わざわざ遠出してまで食べたい”あの味”、皆さんありませんか?
その味にはどんな思い出が詰まっていますか?
さらに、いつもその流れで立ち寄る街やお店・風景など、
あなたの鉄板”ちょっと遠出の旅グルメ”お待ちしています!
メッセージをお寄せいただき、番組でご紹介された方には
JCBギフト券1000円分をプレゼントいたしますので、ぜひご参加ください!
メールはasamimi@stv.jp FAXは札幌011-202-7290
「ツルハ ハッピーライフ 毎日笑顔 係」まで!
7月と8月毎週月曜日の期間限定でお送りします!(全9回です)
今回のメッセージテーマは
「 ツルハハッピーライフ毎日笑顔~ちょっと遠出の旅グルメ! 」
食は人を笑顔にさせますね。
わざわざ遠出してまで食べたい”あの味”、皆さんありませんか?
その味にはどんな思い出が詰まっていますか?
さらに、いつもその流れで立ち寄る街やお店・風景など、
あなたの鉄板”ちょっと遠出の旅グルメ”お待ちしています!
メッセージをお寄せいただき、番組でご紹介された方には
JCBギフト券1000円分をプレゼントいたしますので、ぜひご参加ください!
メールはasamimi@stv.jp FAXは札幌011-202-7290
「ツルハ ハッピーライフ 毎日笑顔 係」まで!