今朝の放送内容 12月13日(水)
2023年12月13日(水)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●函館市イワシ漂着 「処理水放出の3か月後」英大衆紙の記事 風評被害を懸念
●登別市で85歳女性がはねられ死亡 81歳男性運転手を逮捕
●札幌市東区でごみステーションが燃える不審火 けが人なし
●運転手不在の路面電車が赤信号の交差点に進入 重大インシデントに認定し調査へ 国交省
●道内のトライアル3店舗 マグロやエビなど産地誤表記 農水省の検査で発覚
●元自衛官3人による強制わいせつ事件 懲役2年執行猶予4年の有罪判決
●岸田総理、安倍派4閣僚と高木国対委員長の“先行交代”で最終調整
●岸田派も過少記載疑い 安倍派裏金5億円か
●“マイナ保険証”来年秋に予定通り一体化へ 誤登録1.6万件
●幌加内そば、生産量半減 猛暑と大雨影響1100トンに
●ドジャースが大谷翔平選手と正式契約発表 超異例の992億円後払い契約
●コンサドーレ田中宏武選手 J2藤枝への期限付き移籍で成長
●来季からJリーグクラブ名称に企業名「解禁」へ 発足から30年 収入増へ改革実施
●サッカー甲府 J2勢初のACL決勝トーナメント進出
●登別市で85歳女性がはねられ死亡 81歳男性運転手を逮捕
●札幌市東区でごみステーションが燃える不審火 けが人なし
●運転手不在の路面電車が赤信号の交差点に進入 重大インシデントに認定し調査へ 国交省
●道内のトライアル3店舗 マグロやエビなど産地誤表記 農水省の検査で発覚
●元自衛官3人による強制わいせつ事件 懲役2年執行猶予4年の有罪判決
●岸田総理、安倍派4閣僚と高木国対委員長の“先行交代”で最終調整
●岸田派も過少記載疑い 安倍派裏金5億円か
●“マイナ保険証”来年秋に予定通り一体化へ 誤登録1.6万件
●幌加内そば、生産量半減 猛暑と大雨影響1100トンに
●ドジャースが大谷翔平選手と正式契約発表 超異例の992億円後払い契約
●コンサドーレ田中宏武選手 J2藤枝への期限付き移籍で成長
●来季からJリーグクラブ名称に企業名「解禁」へ 発足から30年 収入増へ改革実施
●サッカー甲府 J2勢初のACL決勝トーナメント進出
今朝の選曲
【6時台】
M「甘えんぼ/大塚愛」
M「TRY TO WAKE UP TO A MORNING /ゴダイゴ 」
M「甘えんぼ/大塚愛」
M「TRY TO WAKE UP TO A MORNING /ゴダイゴ 」
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 魂のエース ジョニー黒木 」
今日12月13日はかつて「魂のエース」と言われた、
現在千葉ロッテマリーンズ投手コーチ、黒木知宏さん50歳のお誕生日です。
黒木知宏さんは1973年12月13日宮崎県日向市出身の元投手です。
2013年~2017年にはファイターズの投手コーチも務めました。
そう、あの大谷翔平選手の1年目からメジャー移籍するまでの
コーチだったということになります。
小学生時代は野球ではなく、ソフトボールチームのエースとして活躍していたそうです。
更に中学時代は野球よりボディービルに熱中していたそうで、
パワーリフティングの県大会で優勝した経験もあるそうです。
本格的に野球に取り組んだ延岡学園高校時代は3年生の時に夏の甲子園に出場。
ただ、初戦の2回戦で四日市工業に4-8で敗れ涙をのんでいます。
高校卒業後は、社会人野球、新王子製紙春日井に入社。
1994年の都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として優勝に貢献するなど活躍。
それが認められこの年の11月に行われたドラフト会議で、
千葉ロッテマリーンズから2位指名を受け、入団します。
1995年のルーキーイヤーは先発、リリーフとフル回転。
6月30日の対日本ハムファイターズ戦ではプロ初勝利を完封勝利で挙げました。
そして、この時に黒木さんのニックネーム「ジョニー」が世に広まるきっかけが生まれます。
このインタビューで黒木が「54番は、ジョニーですので、宜しくお願いします!」
と答えたことで、ジョニーの愛称が定着しました。
このニックネーム、実は社会人時代にミーティングで居眠りをした罰で髪を短く角刈りにした際
「山本譲二さんに似ている」ということで、
当初「ジョージ」と呼ばれていたそうなんですが、
1学年後輩だった選手が「ジョージじゃなくて、ジョニーにしましょう」と言い出し、
それを本人も気に入りニックネームとして採用したそうです。
2年目は主力投手が離脱したことで、先発ローテーションを任されるようになります。
初めて規定投球回にも到達し8勝、3年目の1997年には初の開幕ローテーションに入り
チームトップの12勝を挙げて、初の防御率2点台を記録。
イニングも240回以上を投げ、13完投。
いずれもリーグ最多となり、現在早稲田大学野球部監督の小宮山悟さんと共に
チームのダブルエースとして活躍し始めます。
しかし、4年目の1998年、黒木さんにプロ野球史に残る試練が訪れます。
この年の千葉ロッテは5月4日まで首位を走るなど、開幕ダッシュに成功します。
黒木さん自身も4月は3勝負けなしと好調をキープします。
ただ、この時ロッテのクローザーを務めていた河本育之さんがケガで離脱したことにより、
チームトップの6勝を挙げていた黒木さんを抑えに配置転換し巻き返しを図ろうとします。
しかし、黒木さんは3試合に投げ0勝2敗と連続で抑えに失敗。
するとチームにも影響が出始めます。
6月13日の近鉄戦に敗れると、あれよあれよという間に連敗しはじめ、
気が付けば6月は残り試合全て負け。
7月に入っても状況は改善せずついにプロ野球ワーストの16連敗を喫してしまします。
次負ければプロ野球ワースト記録更新の17連敗がかかるという何が何でも勝利したい7月7日、
七夕にグリーンスタジアム神戸(現在のほっともっとフィールド神戸)で行われたオリックス戦。
先発マウンドには黒木さんが上がります。
この試合先制したのはロッテ、3回、福浦さんの犠牲フライで1点を先制すると
フランコのタイムリーで追加点。
現在のファイターズGM補佐、オリックス先発木田優夫さんから2点を奪います。
しかし4回、自らのワイルドピッチで1点を失いますが、以降はノーヒットで切り抜けます。
すると6回、ロッテキャリオンのソロホームランで1点加え3-1とリードを広げます。
そして試合は9回、黒木さんは当時オリックスのイチローさんから三振を奪うなど
2アウトまでこぎつけますが、ヒット1本を打たれ2アウト1塁。
ここで5番プリアム、2ストライクと追い込みますがインコースをついた球を振りぬかれ、
打球はあろうことかレフトスタンドへ。
あと1球で連敗脱出という状況からまさかの同点ホームランを打たれると、
黒木さんは膝から崩れ落ちマウンド上でうずくまります。
結局、延長12回の裏に後続投手がサヨナラ満塁ホームランを打たれ7-3でサヨナラ負け。
プロ野球ワースト更新の17連敗となってしまいました。
後年のインタビューで黒木さん、実はこのあとマウンド降りると
脱水症状でけいれんを起こすなどぎりぎりの状態だったそうです。
そして、打たれた打球を見送った瞬間からの記憶がまったくなくなってしまったという程、
衝撃的な出来事だったようです。
日付が7月7日だったこともあり、この試合は「七夕の悲劇」として、
ファンの間では伝説の試合となっています。
しかし、このような出来事がありながらもシーズンでは13勝を挙げ
最多勝と勝率.591で最高勝率を獲得。
そして、2000年に行われたシドニーオリンピックでは
史上初のプロアマ連合チームの一員としてオリンピックにも参加するなど活躍を続けます。
2001年には開幕戦のライオンズ戦で勝利し、21世紀初の勝利投手になるなど
オールスター前までに11勝を挙げリーグトップの勝利数でした。
ただ、前年からの右肩の違和感があり後半戦を棒に振ります。
この違和感、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我という診断でしたが、
肩の腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明します。
ただ、これだけの重症にもかかわらず、手術を選ばず自然治癒を選択。
単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々、
更に投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、
実に3年という長い月日をかけてリハビリを続けました。
ちなみにこの頃ロッテでは選手の名を冠した弁当が発売されると
次々と何らかの不幸が降りかかることが続いたことから「弁当の呪い」というのが
まことしやかにささやかれている時期で
黒木さんのケガも「ジョニー黒木弁当」発売後だったことから、
黒木さんも被害者の一人だとされています。
ただ、長いリハビリの末2004年6月に3年ぶりに勝利をし、復活を遂げます。
翌2005年には本拠地では実に1,545日ぶりとなる勝利を挙げます。
この勝利でロッテはパ・リーグプレーオフ進出と、1995年以来10年ぶりのAクラスを確定させました。
しかし2007年、4月27日の対西武ライオンズ戦に1回1/3を投げて以降一軍登板が無く、オフに戦力外。
他チームからも声がかからず、そのまま引退となりました。
未だにプロ野球で10以上の連敗が続くと、黒木さんのあのシーンが引き合いに出されますが、
2013年にファイターズのコーチにつく際には「熱くいきます」とコメントし、
どんな苦難があってもひるまずマウンドに立ち続けた「魂のエース」の気概を
ファイターズ投手陣に注入してくれた、そんな方でした。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 魂のエース ジョニー黒木 」
今日12月13日はかつて「魂のエース」と言われた、
現在千葉ロッテマリーンズ投手コーチ、黒木知宏さん50歳のお誕生日です。
黒木知宏さんは1973年12月13日宮崎県日向市出身の元投手です。
2013年~2017年にはファイターズの投手コーチも務めました。
そう、あの大谷翔平選手の1年目からメジャー移籍するまでの
コーチだったということになります。
小学生時代は野球ではなく、ソフトボールチームのエースとして活躍していたそうです。
更に中学時代は野球よりボディービルに熱中していたそうで、
パワーリフティングの県大会で優勝した経験もあるそうです。
本格的に野球に取り組んだ延岡学園高校時代は3年生の時に夏の甲子園に出場。
ただ、初戦の2回戦で四日市工業に4-8で敗れ涙をのんでいます。
高校卒業後は、社会人野球、新王子製紙春日井に入社。
1994年の都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として優勝に貢献するなど活躍。
それが認められこの年の11月に行われたドラフト会議で、
千葉ロッテマリーンズから2位指名を受け、入団します。
1995年のルーキーイヤーは先発、リリーフとフル回転。
6月30日の対日本ハムファイターズ戦ではプロ初勝利を完封勝利で挙げました。
そして、この時に黒木さんのニックネーム「ジョニー」が世に広まるきっかけが生まれます。
このインタビューで黒木が「54番は、ジョニーですので、宜しくお願いします!」
と答えたことで、ジョニーの愛称が定着しました。
このニックネーム、実は社会人時代にミーティングで居眠りをした罰で髪を短く角刈りにした際
「山本譲二さんに似ている」ということで、
当初「ジョージ」と呼ばれていたそうなんですが、
1学年後輩だった選手が「ジョージじゃなくて、ジョニーにしましょう」と言い出し、
それを本人も気に入りニックネームとして採用したそうです。
2年目は主力投手が離脱したことで、先発ローテーションを任されるようになります。
初めて規定投球回にも到達し8勝、3年目の1997年には初の開幕ローテーションに入り
チームトップの12勝を挙げて、初の防御率2点台を記録。
イニングも240回以上を投げ、13完投。
いずれもリーグ最多となり、現在早稲田大学野球部監督の小宮山悟さんと共に
チームのダブルエースとして活躍し始めます。
しかし、4年目の1998年、黒木さんにプロ野球史に残る試練が訪れます。
この年の千葉ロッテは5月4日まで首位を走るなど、開幕ダッシュに成功します。
黒木さん自身も4月は3勝負けなしと好調をキープします。
ただ、この時ロッテのクローザーを務めていた河本育之さんがケガで離脱したことにより、
チームトップの6勝を挙げていた黒木さんを抑えに配置転換し巻き返しを図ろうとします。
しかし、黒木さんは3試合に投げ0勝2敗と連続で抑えに失敗。
するとチームにも影響が出始めます。
6月13日の近鉄戦に敗れると、あれよあれよという間に連敗しはじめ、
気が付けば6月は残り試合全て負け。
7月に入っても状況は改善せずついにプロ野球ワーストの16連敗を喫してしまします。
次負ければプロ野球ワースト記録更新の17連敗がかかるという何が何でも勝利したい7月7日、
七夕にグリーンスタジアム神戸(現在のほっともっとフィールド神戸)で行われたオリックス戦。
先発マウンドには黒木さんが上がります。
この試合先制したのはロッテ、3回、福浦さんの犠牲フライで1点を先制すると
フランコのタイムリーで追加点。
現在のファイターズGM補佐、オリックス先発木田優夫さんから2点を奪います。
しかし4回、自らのワイルドピッチで1点を失いますが、以降はノーヒットで切り抜けます。
すると6回、ロッテキャリオンのソロホームランで1点加え3-1とリードを広げます。
そして試合は9回、黒木さんは当時オリックスのイチローさんから三振を奪うなど
2アウトまでこぎつけますが、ヒット1本を打たれ2アウト1塁。
ここで5番プリアム、2ストライクと追い込みますがインコースをついた球を振りぬかれ、
打球はあろうことかレフトスタンドへ。
あと1球で連敗脱出という状況からまさかの同点ホームランを打たれると、
黒木さんは膝から崩れ落ちマウンド上でうずくまります。
結局、延長12回の裏に後続投手がサヨナラ満塁ホームランを打たれ7-3でサヨナラ負け。
プロ野球ワースト更新の17連敗となってしまいました。
後年のインタビューで黒木さん、実はこのあとマウンド降りると
脱水症状でけいれんを起こすなどぎりぎりの状態だったそうです。
そして、打たれた打球を見送った瞬間からの記憶がまったくなくなってしまったという程、
衝撃的な出来事だったようです。
日付が7月7日だったこともあり、この試合は「七夕の悲劇」として、
ファンの間では伝説の試合となっています。
しかし、このような出来事がありながらもシーズンでは13勝を挙げ
最多勝と勝率.591で最高勝率を獲得。
そして、2000年に行われたシドニーオリンピックでは
史上初のプロアマ連合チームの一員としてオリンピックにも参加するなど活躍を続けます。
2001年には開幕戦のライオンズ戦で勝利し、21世紀初の勝利投手になるなど
オールスター前までに11勝を挙げリーグトップの勝利数でした。
ただ、前年からの右肩の違和感があり後半戦を棒に振ります。
この違和感、当初は棘上筋炎症という比較的軽い怪我という診断でしたが、
肩の腱板の内側靭帯を数本完全損傷する重傷だったことが後に判明します。
ただ、これだけの重症にもかかわらず、手術を選ばず自然治癒を選択。
単調なウェートトレーニングやランニングを繰り返す日々、
更に投球フォームを肩に負担のかからないサイドスローに近いフォームに改造するなど、
実に3年という長い月日をかけてリハビリを続けました。
ちなみにこの頃ロッテでは選手の名を冠した弁当が発売されると
次々と何らかの不幸が降りかかることが続いたことから「弁当の呪い」というのが
まことしやかにささやかれている時期で
黒木さんのケガも「ジョニー黒木弁当」発売後だったことから、
黒木さんも被害者の一人だとされています。
ただ、長いリハビリの末2004年6月に3年ぶりに勝利をし、復活を遂げます。
翌2005年には本拠地では実に1,545日ぶりとなる勝利を挙げます。
この勝利でロッテはパ・リーグプレーオフ進出と、1995年以来10年ぶりのAクラスを確定させました。
しかし2007年、4月27日の対西武ライオンズ戦に1回1/3を投げて以降一軍登板が無く、オフに戦力外。
他チームからも声がかからず、そのまま引退となりました。
未だにプロ野球で10以上の連敗が続くと、黒木さんのあのシーンが引き合いに出されますが、
2013年にファイターズのコーチにつく際には「熱くいきます」とコメントし、
どんな苦難があってもひるまずマウンドに立ち続けた「魂のエース」の気概を
ファイターズ投手陣に注入してくれた、そんな方でした。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は「あさミミ流!#(ハッシュタグ)今週の献立」
週の始まり月曜日は、1週間の献立・レシピをリスナーの皆さんのアイディアの下
“あさミミ流”にご紹介していきます!
火曜日は「庭野ほのかの☆いっぺこトーク」
新潟県出身の庭野ほのかAN。「いっぺこと」とは、新潟県の方言で『沢山』という意味。
このコーナーを通して“沢山”リスナーの皆さんとお話ができるよう、
庭野AN目線の話題を毎週お届けしていきます!
水曜日は「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
木曜火は「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日は「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!