今朝の放送内容 5月17日(火)
2022年5月17日(火)
5月17日(火)
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●観光船沈没事故 陸上から海岸を捜索
●ロシア主導の軍事同盟で首脳会議
●アメリカで発砲事件相次ぐ
●道内感染者2021人 全国2万1千人
●塩野義 12歳から19歳向けのワクチン治験を開始
●手稲区で不審火相次ぐ
●旭川で砲弾を交番に持ち込む
●白老の農家でクマ被害
●給付金誤送金 男性返還困難
●外国人観光客受け入れへ 実証事業発表
●スウェーデンがNATO加盟申請を表明
●偽ブランド品を販売か ベトナム人男性2人を逮捕
●きのうの大リーグ エンゼルス大谷翔平選手が8号2ラン
●きょうの大リーグ試合予定
●きのうの大相撲夏場所結果
一山本が7勝2敗 31年ぶり道勢Vへ
●Bリーグチャンピオンシップ 昨季王者・千葉ジェッツが敗退
●米女子ゴルフ コグニザント・ファウンダーズ杯
畑岡奈紗選手が6位タイでフィニッシュ
●米男子ゴルフ バイロン・ネルソン杯
松山英樹選手が復帰戦3位「思ったよりできた」
●コンサドーレ あすルヴァン杯鳥栖戦 引き分け以上で1次リーグ突破
●ファイターズ 上原健太選手が交流戦から二刀流解禁へ
●レバンガ 橋本竜馬選手と来季の契約合意 牧全選手ら自由交渉選手も発表
●ロシア主導の軍事同盟で首脳会議
●アメリカで発砲事件相次ぐ
●道内感染者2021人 全国2万1千人
●塩野義 12歳から19歳向けのワクチン治験を開始
●手稲区で不審火相次ぐ
●旭川で砲弾を交番に持ち込む
●白老の農家でクマ被害
●給付金誤送金 男性返還困難
●外国人観光客受け入れへ 実証事業発表
●スウェーデンがNATO加盟申請を表明
●偽ブランド品を販売か ベトナム人男性2人を逮捕
●きのうの大リーグ エンゼルス大谷翔平選手が8号2ラン
●きょうの大リーグ試合予定
●きのうの大相撲夏場所結果
一山本が7勝2敗 31年ぶり道勢Vへ
●Bリーグチャンピオンシップ 昨季王者・千葉ジェッツが敗退
●米女子ゴルフ コグニザント・ファウンダーズ杯
畑岡奈紗選手が6位タイでフィニッシュ
●米男子ゴルフ バイロン・ネルソン杯
松山英樹選手が復帰戦3位「思ったよりできた」
●コンサドーレ あすルヴァン杯鳥栖戦 引き分け以上で1次リーグ突破
●ファイターズ 上原健太選手が交流戦から二刀流解禁へ
●レバンガ 橋本竜馬選手と来季の契約合意 牧全選手ら自由交渉選手も発表
今朝の選曲
【6時台】
M「フラワー/ Kinki Kids 」
【7時台】
M「ブック・オブ・デイズ/エンヤ」
M「フラワー/ Kinki Kids 」
【7時台】
M「ブック・オブ・デイズ/エンヤ」
あさミミ!アラカルト〜八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は『 北の怪童 横綱北の湖 』
大相撲5月場所が行われていますが、
道内出身力士では一山本関が唯一幕内で頑張っていて16日の9日目終了時点で7勝2敗、
今の八角親方当時の北勝海以来31年ぶりの道内出身力士の優勝も夢ではなくなってきています。
そんな5月場所は大相撲にとって転換点となった場所であるというのをご存知でしょうか?
1953年5月16日、この日は日本で初めて大相撲のテレビ中継がされた日でこれをきっかけに
大相撲人気が更に全国へと広がっていったといっても過言ではない日です。
そして、5月16日はその大相撲の頂点第55代横綱に上り詰めた
北の湖敏満・北の湖親方のお誕生日でもあり、ご存命なら昨日(16日)で69歳でした。
「北の怪童」と呼ばれた北の湖さん。
北の湖 敏満、本名小畑 敏満さんは1953年(昭和28年)5月16日北海道有珠郡壮瞥町出身。
そう、奇しくも大相撲のテレビ中継が始まったその日に生まれたという
まさに大相撲の申し子のような方です。
幼い頃から食欲旺盛で体格は良く、特に小学校6年生からの成長ぶりがすごくて、
12歳の時に身長160cm強、体重60kg程度の体格が、13歳の中学1年生の時点で、
既に身長173cm、体重100kgに達していたそうです。
スポーツは万能だったそうで、特に柔道は向かうところ敵なし。
中学1年生で初段となった後、柔道の「胆振西部大会」では
体格が倍以上あった高校生を破って優勝したというエピソードも残っています。
柔道が得意ではありましたが、好きなスポーツは野球。
体の大きさから、左打ちのハンディキャップを課せられても打球はさく越え連発だったようです。
そんなスポーツ万能で身体の大きかった北の湖さんの噂は多くの相撲部屋にも届きます。
中学へ入学した頃には引退したばかりの室蘭市出身の元大相撲力士「北葉山」さんが
北の湖さんの元を訪れるなど、熱心な誘いを受けたそうです。
本当か嘘かは定かではありませんが、北の湖さんのご自宅の玄関先で
各部屋のスカウトが入門をめぐって喧嘩をした・・
なんてエピソードも残っているほど有望な少年だったようです。
そんな争奪戦の末、結局当時の三保ヶ関部屋に入門。
お母さまは入門に反対だったそうなんですが、根負けして入門を認めた際には
「強くなるまで帰ってくるな」とおっしゃったそうで、
この件について後年ご本人は「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。
どんな時でも耐えることができたんです」と明かしていたそうです。
入門後は墨田区立両国中学校へ転校し力士としての研鑽を積むことになります。
ただ、まだこの時は中学生、中学卒業までは義務教育期間中ということもあって
本格的な稽古は夏休みや日曜日しかできなかったそうです。
そんな北の湖さんの初土俵は1967年1月場所。
四股名の「北の湖」は、故郷壮瞥町にある洞爺湖にちなんで命名されます。
稽古は夏休みや日曜に限られていたにもかかわらず、得意だった柔道を始め、
野球・水泳・スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世を果たし、
当時の最年少昇進記録を次々に塗り替え、中学卒業間際の1969年3月には15歳9ヶ月で幕下に昇進、
なんと昇進の登竜門である十両以下の優勝(下位優勝)がないまま、
1971年5月場所に17歳11ヶ月で十両に昇進しました。
1972年1月場所には18歳7ヶ月で新入幕を果たし、1973年には19歳7ヶ月で小結に昇進。
1974年1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると、
5月場所では13勝2敗で2回目の優勝、7月場所での13勝2敗の成績を受け、
場所後の横綱審議委員会では賛成多数で横綱推薦が決まり、
未だ破られていない歴代最年少の21歳2ヶ月で第55代横綱昇進を果たします。
そして、横綱昇進を果たしてからの北の湖さんはまさに無双状態に突入します。
年間最多勝利7回は白鵬に破られるまで最多記録。
幕内連続勝ち越し記録50場所は白鵬の51に次いで歴代2位、
幕内連続2桁勝利記録37場所は白鵬の51場所に次いで歴代2位と、
とにかくその強さは憎らしいほどで、あまりの強さに北の湖さんが勝つと
観客から不満を表す座布団が舞いまくるという方で、
逆に敗れると観客が拍手喝采するような存在でした。
かつて1960年代には子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がありましたが、
1970年代後半には子供が嫌いなものとして「江川・ピーマン・北の湖」なんて言葉も出たほど。
更に、大相撲の取り組みの人気度をはかる「懸賞」も
普通横綱の取り組みには無数の懸賞金がかけられますが、場所中1本もない日が2、3日あったそうで
スポンサーからは「懸賞かけてもどうせ(北の湖が)勝つから面白くない。」
と言われていたほどだったようです。
そんな北の湖さんですが、同時期に横綱だった輪島さんとは名勝負を繰り広げていて
輪島—北の湖による千秋楽、結びの対戦回数は22回で曙—貴乃花の27回に次いで、
史上2位という記録を持っています。
しかも、その対戦は熱戦が多く千秋楽で両者優勝圏内の対戦が8回 (うち相星決戦が4回) 、
あまりの大相撲に水入りが3回と多くの名勝負が展開されました。
ただ、1981年の夏巡業中に痛めた膝の状態が思わしくなく、
それ以降は足腰のケガとの戦いにも悩まされます。
そして1985年1月場所、引退届を提出し引退となりました。
現役通算951勝は歴代5位、幕内通算804勝は歴代4位、幕内優勝回数24は歴代5位、
横綱勝星670、横綱出場818は歴代2位という名力士でした。
引退後は相撲界への大きな功績を残した力士に認められる
「一代年寄(相撲界に大きな功績を残した力士に認められる年寄のことで、
日本相撲協会にある 105の年寄名跡のほかに,力士名がそのまま年寄名とされる。
資格は本人1代かぎりで,定年または廃業すれば自然消滅してしまう。
これまで大鵬と北の湖と貴乃花の3人のみ。)」「北の湖」として1985年12月1日に
三保ヶ関部屋から分家独立して北の湖部屋を創設。
後進の指導にも熱心に取り組まれ2002年には第9代日本相撲協会理事長へ就任。
一時期大相撲八百長問題などでごたごたが続いていた時も体調不良を押して
相撲界の為に奔走されますが、2015年11月直腸がんによる多臓器不全のため、
日本相撲協会理事長在任中に62歳の若さで逝去されました。
そんな北の湖さんの功績をたたえ、1991年壮瞥町には「横綱北の湖記念館」が建てられ
北の湖さんの半生を知ることができます。
今、優勝戦線に残っている一山本を北の湖さんは天国からどのようにご覧になっているのでしょうか。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は『 北の怪童 横綱北の湖 』
大相撲5月場所が行われていますが、
道内出身力士では一山本関が唯一幕内で頑張っていて16日の9日目終了時点で7勝2敗、
今の八角親方当時の北勝海以来31年ぶりの道内出身力士の優勝も夢ではなくなってきています。
そんな5月場所は大相撲にとって転換点となった場所であるというのをご存知でしょうか?
1953年5月16日、この日は日本で初めて大相撲のテレビ中継がされた日でこれをきっかけに
大相撲人気が更に全国へと広がっていったといっても過言ではない日です。
そして、5月16日はその大相撲の頂点第55代横綱に上り詰めた
北の湖敏満・北の湖親方のお誕生日でもあり、ご存命なら昨日(16日)で69歳でした。
「北の怪童」と呼ばれた北の湖さん。
北の湖 敏満、本名小畑 敏満さんは1953年(昭和28年)5月16日北海道有珠郡壮瞥町出身。
そう、奇しくも大相撲のテレビ中継が始まったその日に生まれたという
まさに大相撲の申し子のような方です。
幼い頃から食欲旺盛で体格は良く、特に小学校6年生からの成長ぶりがすごくて、
12歳の時に身長160cm強、体重60kg程度の体格が、13歳の中学1年生の時点で、
既に身長173cm、体重100kgに達していたそうです。
スポーツは万能だったそうで、特に柔道は向かうところ敵なし。
中学1年生で初段となった後、柔道の「胆振西部大会」では
体格が倍以上あった高校生を破って優勝したというエピソードも残っています。
柔道が得意ではありましたが、好きなスポーツは野球。
体の大きさから、左打ちのハンディキャップを課せられても打球はさく越え連発だったようです。
そんなスポーツ万能で身体の大きかった北の湖さんの噂は多くの相撲部屋にも届きます。
中学へ入学した頃には引退したばかりの室蘭市出身の元大相撲力士「北葉山」さんが
北の湖さんの元を訪れるなど、熱心な誘いを受けたそうです。
本当か嘘かは定かではありませんが、北の湖さんのご自宅の玄関先で
各部屋のスカウトが入門をめぐって喧嘩をした・・
なんてエピソードも残っているほど有望な少年だったようです。
そんな争奪戦の末、結局当時の三保ヶ関部屋に入門。
お母さまは入門に反対だったそうなんですが、根負けして入門を認めた際には
「強くなるまで帰ってくるな」とおっしゃったそうで、
この件について後年ご本人は「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。
どんな時でも耐えることができたんです」と明かしていたそうです。
入門後は墨田区立両国中学校へ転校し力士としての研鑽を積むことになります。
ただ、まだこの時は中学生、中学卒業までは義務教育期間中ということもあって
本格的な稽古は夏休みや日曜日しかできなかったそうです。
そんな北の湖さんの初土俵は1967年1月場所。
四股名の「北の湖」は、故郷壮瞥町にある洞爺湖にちなんで命名されます。
稽古は夏休みや日曜に限られていたにもかかわらず、得意だった柔道を始め、
野球・水泳・スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世を果たし、
当時の最年少昇進記録を次々に塗り替え、中学卒業間際の1969年3月には15歳9ヶ月で幕下に昇進、
なんと昇進の登竜門である十両以下の優勝(下位優勝)がないまま、
1971年5月場所に17歳11ヶ月で十両に昇進しました。
1972年1月場所には18歳7ヶ月で新入幕を果たし、1973年には19歳7ヶ月で小結に昇進。
1974年1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると、
5月場所では13勝2敗で2回目の優勝、7月場所での13勝2敗の成績を受け、
場所後の横綱審議委員会では賛成多数で横綱推薦が決まり、
未だ破られていない歴代最年少の21歳2ヶ月で第55代横綱昇進を果たします。
そして、横綱昇進を果たしてからの北の湖さんはまさに無双状態に突入します。
年間最多勝利7回は白鵬に破られるまで最多記録。
幕内連続勝ち越し記録50場所は白鵬の51に次いで歴代2位、
幕内連続2桁勝利記録37場所は白鵬の51場所に次いで歴代2位と、
とにかくその強さは憎らしいほどで、あまりの強さに北の湖さんが勝つと
観客から不満を表す座布団が舞いまくるという方で、
逆に敗れると観客が拍手喝采するような存在でした。
かつて1960年代には子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がありましたが、
1970年代後半には子供が嫌いなものとして「江川・ピーマン・北の湖」なんて言葉も出たほど。
更に、大相撲の取り組みの人気度をはかる「懸賞」も
普通横綱の取り組みには無数の懸賞金がかけられますが、場所中1本もない日が2、3日あったそうで
スポンサーからは「懸賞かけてもどうせ(北の湖が)勝つから面白くない。」
と言われていたほどだったようです。
そんな北の湖さんですが、同時期に横綱だった輪島さんとは名勝負を繰り広げていて
輪島—北の湖による千秋楽、結びの対戦回数は22回で曙—貴乃花の27回に次いで、
史上2位という記録を持っています。
しかも、その対戦は熱戦が多く千秋楽で両者優勝圏内の対戦が8回 (うち相星決戦が4回) 、
あまりの大相撲に水入りが3回と多くの名勝負が展開されました。
ただ、1981年の夏巡業中に痛めた膝の状態が思わしくなく、
それ以降は足腰のケガとの戦いにも悩まされます。
そして1985年1月場所、引退届を提出し引退となりました。
現役通算951勝は歴代5位、幕内通算804勝は歴代4位、幕内優勝回数24は歴代5位、
横綱勝星670、横綱出場818は歴代2位という名力士でした。
引退後は相撲界への大きな功績を残した力士に認められる
「一代年寄(相撲界に大きな功績を残した力士に認められる年寄のことで、
日本相撲協会にある 105の年寄名跡のほかに,力士名がそのまま年寄名とされる。
資格は本人1代かぎりで,定年または廃業すれば自然消滅してしまう。
これまで大鵬と北の湖と貴乃花の3人のみ。)」「北の湖」として1985年12月1日に
三保ヶ関部屋から分家独立して北の湖部屋を創設。
後進の指導にも熱心に取り組まれ2002年には第9代日本相撲協会理事長へ就任。
一時期大相撲八百長問題などでごたごたが続いていた時も体調不良を押して
相撲界の為に奔走されますが、2015年11月直腸がんによる多臓器不全のため、
日本相撲協会理事長在任中に62歳の若さで逝去されました。
そんな北の湖さんの功績をたたえ、1991年壮瞥町には「横綱北の湖記念館」が建てられ
北の湖さんの半生を知ることができます。
今、優勝戦線に残っている一山本を北の湖さんは天国からどのようにご覧になっているのでしょうか。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」!ですが、少しマイナーチェンジします。
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!