北海道ライブ あさミミ!

今朝の放送内容 3月20日(水)

2024年3月20日(水)

今朝の放送内容

今朝の主なニュース・スポーツ情報

●札幌市北区・札幌新道で走行中のトラックが炎上 荷台付近から出火か 運転手にけがなし
●札幌・コンビニ殺傷事件 複数の刃物を使用か 「男性店員に対応されるのが不満」 
●収容人数の3倍のパーティー券販売 鈴木知事「適切に開催された」
●小樽消防職員が着服か 約1000万円を使い込む 男性職員が自ら警察に自首
●日銀、マイナス金利解除決定 17年ぶり利上げ 金融政策を転換
●金利上昇、道内企業が警戒 住宅業界は大打撃に、金融機関には追い風
●日本製紙釧路工場跡地 愛媛の製材会社進出検討 道内最大級
●香港「国家安全条例」が全会一致で可決 条例案提出から11日、異例の早さでの成立
●子どもへの性暴力の防止法案を閣議決定 「日本版DBS」創設など盛り込む
●野党4党、安倍派幹部ら6人の証人喚問要求で一致

●きのうのセンバツ高校野球結果 きょう別海初戦、エース右腕・堺暖貴投手が闘志
●ファイターズOP戦 山崎福也投手が6回0封 万波選手・松本剛選手が第1号
●レバンガ きょうアウェーで仙台戦 元島根・トラビス選手が新加入
●きのうの大相撲春場所結果 一山本5勝5敗
●メジャーリーグきょう開幕 ドジャース対パドレス戦 大谷翔平選手は前日練習に姿見せず

今朝の選曲

【6時台】
M「大丈夫/古内東子」

M「PURE GOLD /矢沢永吉」
  • 北海道ライブ あさミミ!
    来週の月曜日『あさミミ流!#今週の献立』は豆苗レシピ!

あさミミ!アラカルト~八幡淳のスポーツプレゼンス

八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。

今回は「 友へ捧ぐ銀メダル 君原健二 」

今年はオリンピックイヤー。
オリンピックで最後に行われる競技が男子マラソン。
そのオリンピックに3大会連続で出場し、今日83歳のお誕生日の
メキシコシティオリンピック男子マラソン銀メダリスト、君原健二さん。

君原健二さんは1941年3月20日、福岡県北九州市生まれのマラソンランナー。
5人兄弟の3番目で、姉、兄、弟さんが2人います。
子供の頃、実は学校の成績はとっても悪いほうだったそうです。
次第に「自分は人に比べると、勉強もスポーツも劣っている」という
劣等感を持って過ごすことになってしまったそうなんですが、
この劣等感が後のマラソンに大きな影響を与えることになります。
「恥ずかしいことは少しでも小さくしたい」という小さな向上心が生まれ、
それによって少しずつ自分自身を成長させていくことができた、と語っています。
中でも、小学六年生のとき、成績表で一科目だけ評価されたのが算数。
そのことがきっかけで、その後も、中学、高校を通して算数、
数学という科目は比較的いい成績を残すことができたそうで、
これをマラソンにもいかすことができたと言っています。

具体的には「42.195キロという長距離を上手に走るためには、
一定のペースで走るのが一番経済的な走り方である。」という理論。
そんな君原さんがマラソンを始めるきっかけになったのはご自身の気弱な性格にありました。
中学二年生のときに、クラスの友達から「君原、駅伝クラブに入らないか?」と誘われ、
走ることが得意でなく、興味も関心もなにもかかわらず、
当時の君原さんはとっても気の弱い性格だったそうで、それを断る勇気がなく、
漠然とした気持ちでその友達について走りはじめたのがきっかけだったそうです。
ただ、マラソンの成績はというと高校三年生で、ようやく全国大会、
インターハイに出場することができたレベル。
成績は予選落ちだったそうです。
それでも当時の君原さんは「全国大会に参加できた」という満足感でいっぱい。
走ることへの未練もなく陸上は続ける意思がなかったそうです。

ただ、高校卒業後は就職しなければということで、様々就職試験を受けます。
しかし、「採用」にはなかなか至らずにいると、三月、卒業式直前で、
現在の新日本(にっぽん)製鐵,当時の八幡製鐵に、
社の方針として陸上競技部の長距離部門を強化するため急きょ、
別枠で三人採用するということになり、
その三人の中の一人として、採用が決まったということだったようです。

当時の八幡製鐵は、スポーツ王国といわれるほどいろんなスポーツが強いことで
よく知られていたそうです。
1964年の東京オリンピック日本代表355選手のうち、
当時の八幡製鐵の社員は18人もいたほど。
そんな八幡製鐵陸上部では運命的な出会いを果たします。
君原さん2年目に高橋進コーチが就任。
現役時代は3000m障害で日本記録を7度更新、
日本選手権9連覇などは輝かしい成績を残した方で、
同時に当時はまだめずらしかった科学的トレーニングを実証した方でもあります。
個性の強かった君原さんとはしばしばぶつかることも多かったそうですが、
後年「高橋さんと出会えなければ、私は一度だってオリンピックに参加できなかった」
と語るほど、影響力は大きかったそうです。

そんな君原さんのマラソン初挑戦は21歳。
地元・福岡の国際マラソンでデビューでしたが、初マラソンから君原さんの代名詞である
「慎重な走り」を見せます。
これぞ「42.195キロという長距離を上手に走るためには、
一定のペースで走るのが一番経済的な走り方である。」という理論。
結果2時間18分1秒という、今でこそ平凡なタイムですが、
当時のマラソン日本記録2時間18分12秒を、
初マラソンで51秒上回る日本最高記録をたたき出します。
その結果、初めて大きな目標ができます。
それが、このマラソンの1年10ヶ月後に迫っていた、1964年の東京オリンピックです。

そして、東京オリンピックのちょうど一年前、
プレオリンピックというオリンピックと同じ形出行われる国際スポーツ大会で、
君原さんは第2位。
また、最終選考マラソン大会も同じくオリンピックコースで実施されましたが、
その大会で君原さんは優勝。
2位円谷幸吉さん、3位寺沢徹さん。
この上位三人が、東京オリンピックの日本代表マラソン選手に決まります。
そして迎えた東京オリンピック、その最後を締めくくるマラソンでは
エチオピアのアベベが世界最高記録で、オリンピック二連覇。
アベベに訳1000m遅れて、競技場に戻ってきたのが日本の円谷さん。
ところが、円谷さんはゴール手前で後ろから来たイギリスのヒートリーに追い抜かれ、
無念の銅メダル。
競技場での大歓声で後ろからの足音に気づけなかったという出来事でした。
一方の君原さんは8位。自己記録よりも3分33秒も遅いタイムでした。
オリンピック後はほとんど競技会にも参加せず、
結婚したこともあり競技を辞めようと思っていたところ、
高橋コーチが「青春時代にしかできないことは青春時代にやっておかなくてはいけない。」
燃えるような熱い説得が続きます。
一度は断るなどした君原さんも、その熱意に従わざるを得なくなり、
再び競技者生活へ戻ります。

そして迎えた1968年メキシコオリンピックイヤーの1月、
ともに東京で代表となった円谷幸吉さんの自殺という訃報が入ります。
競技場内で抜かれるという東京のリベンジ、
世間の過度な期待や婚約の破断などが原因でした。
そして、代表選考会も難航を極めます。
君原さんよりも選考会のタイムが上回った采谷義秋さんとの比較になったとき、
高橋コーチが「メキシコシティのような高地では大きい采谷義秋より君原が有利」と主張。
君原さんを強力に推し、代表は決定することになりました。

迎えたメキシコ五輪男子マラソン本番、
いつもの「慎重な走り」でレース前半は順位が上がらなかったものの、
高地による酸素不足で次々とスピードの落ちる選手が続出する中、
腹痛に見舞われながらも2位をキープ。
そしてレースは競技場へ。
ふだんは「バランスが崩れ、スピードが鈍る」という理由で
レース中に後ろを見ることはほとんどなかった君原さんでしたが、
競技場に入りゴール直前で後ろを振り向くと、
3番手につけていたニュージーランドのマイケル・ライアンが迫っていることに気が付きます。
必死で逃げる君原さん。
わずか14秒の差で逃げ切り、銀メダルを獲得しました。

このときの行動について君原さんは、
「円谷君の『陰の声』が振り返らせたのかもしれない」
と思っていると語ります。銀メダルは共であり、
ライバルであった円谷さんと獲った二人三脚でのメダルだったのかもしれません。

毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」

月曜日は「あさミミ流!#(ハッシュタグ)今週の献立
週の始まり月曜日は、1週間の献立・レシピをリスナーの皆さんのアイディアの下
“あさミミ流”にご紹介していきます!

火曜日は
庭野ほのかの☆いっぺこトーク
新潟県出身の庭野ほのかAN。「いっぺこと」とは、新潟県の方言で『沢山』という意味。
このコーナーを通して“沢山”リスナーの皆さんとお話ができるよう、
庭野AN目線の話題を毎週お届けしていきます!
 
水曜日は「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
 
木曜火は「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
 
金曜日は「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!
 
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